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母親RH-父親RH+=致死は、乗り越えられた 

柏たんぽぽさんの料理教室で、出会ったTさんというお母さんから、血液の問題に関して質問されました。現実に、RH-不適合を乗り越えた中島デコさんの体験をお知らせします。



デコさんのお子さんは4人目までみんなRH+だけど、免疫抑制剤を使っていないそうです。デコサンいわく”マクロをやっていれば、健康で丈夫な胎盤がきちんと働いて、親子の血液が混ざるなんて事はないのでは”ということでした。

が、気持ちが楽で楽しく生きていくために、免疫抑制剤の注射1本で安心できるのであれば、注射をするという選択も悪くはないのではないかということでした。
****************以下、中島デコさんのエッセイより*******************

つい先日、7才の安海(アン)と3才の民人(ミント)が、何がきっかけかわからないけれど、おもしろい言い争いをしていた。

「アンちゃんはねぇ、バリ島で生まれたんだよ。ミントなんかお風呂の中で生まれたんじゃんかぁ」

「ちゃう!!ミントはおフロじゃない!もっといいトコで生まれたもん!」

どうも、アンはバリ島で生まれた事に誇りを持ってくれていたらしい。知らなかった。

「ねぇ。お母しゃん。ミントおフロじゃないよねぇ。アンにちがうっていってぇ。ワーン!(泣)」

さて、困った。ホントにお前は東京のせまいお風呂の中で生まれたわけで・・・プライドを傷つけないためには、何て言ったら良いものか・・・

「ミントはどこで生まれたんだっけ?」
と私が聞くとミントはすかさず

「おんしぇん(温泉)プールやもん!」

(アッハッハ!大差ないじゃん)と思ったものの、込み上げる笑 いをこらえつつ

「そうだね。ミントは暖かいお風呂の中で生まれたんだよね。お母さんのお腹から出て来てすぐ、目を開けて泳いで来たよ。すごかったよねぇ。だから、ミントは泳ぐのが上手なんだねぇ」

「うん。ミント今度おんしぇんプールでジャブンと飛び込む!ねぇ。お母しゃん。明日行こぉー!」

おっ!話題が変わった。とりあえずは納得したらしい。よかった。

一人目の出産は病院の分娩室をお借りして助産婦さんに自然分娩で取り上げていただいた。その時点ではとても満足のいく出産だったが、こちらの要求を受け入れていただくための病院側とのやりとりでかなり疲れてしまい、2度と病院では産むまいと思た。

二人目は実家の近所のラマーズ法の助産院で出産。前回より楽だったけれど、分娩中に「さぁ、今ですよ。ヒッ、ヒッ、フゥーと息をはいて!」と言われても「息は吸いたい時に吸って、吐きたい時に吐くから、もう少し静かにして欲しいなぁ」と思い、ラマーズ法は卒業した。

三人目は自宅分娩に挑戦。あわてて移動する必要も無く、生活の流れの中で出産できる。上の子達を預ける必要もなく一緒にいられるし自分の慣れ親しんだ家具や布団、食器、食品に囲まれ、かなり安心して気持ちよく出産できる。これは素晴らしい。お薦めです!と力を込めて言わずとも、ひと昔前の日本では『あたりまえ』だったわけです。

けれど、三人目は更に出産が軽く、助産婦さんがいらっしゃる頃には出かかっていて「あらあら。まったく。手を洗う暇もありゃしない!」と言われて、?!助産婦さんて何する人?別に産ませてもらっているわけじゃ無かったんだ。私ががんばって『産む』わけでもないんだ。健康な母体で元気な赤ちゃんだったら好きな時に勝手に出て来るだけなんじゃない。って気がついた。

四人目の出産予定日は夏休み後半だった。人数が増えてきて、上の子達と夏休み中家にいるには暑くてせまい。東京の熱帯夜は最悪だ。しかも、その時点で私は『母子家庭なのに妊婦』というちょっと、めづらしい状況だった。クーラーを買おうか迷った。

いや、もしかして、クーラーをがまんし、助産婦さんをたのまず、出産手当てをあてにし物価の安い所に行けば、リゾート出産出来るんじゃない!?新父エバレットの突飛な発想はいろんな偶然に後押しされて実現。エバレットはジャストタイミングでバリ島に仕事ができ、2週間程滞在していったが結局はその仕事の都合で出産時には間に合わなかった。つまるところ、私は3人連れてバリ島にバカンスに行き、バンガローで一人出産し、3ヶ月後に4人連れて帰国。というめでたくも楽しい経験をさせていただいた。

さて、五人目の民人くん。今度は是非、水中出産にチャレンジしたいと思った。も、聞くところによると、軽く60万円はかかるという。だったら、自宅で思いっきり贅沢なお湯の中で産めるじゃない。と思い、高橋丈夫さんの波動水と小田原の大雄山の金剛水でお風呂を満たし、海の精をたっぷり入れて海水の濃度にした。お湯に浸かると凄楽だった。ここまで経験すると、陣痛の波をサーフィンするのもかなり上手くなり、喜びや高まりは感じるけれど、いわゆる『痛み』は感じることなく最後2回力んだだけでスルッと出て来た。かなり気持ち良かった。でも、ミントに話した様に彼が目を開けて泳いで来たわけでは無く、実は青白い赤ちゃんが土左衛門のようにプカーッと背中から浮いて来た。あわてて空中に出して逆さにして揺すったら泣いて赤くなったのでほっとした。この事は、しばらくミントには内緒にしておこう。

この回こそは立ち会いたいと言っていたエバレット、胎便を出すために含ませるマクリを漢方薬局に買いに行っている間に生まれてしまい、結局また一人出産となってしまった。

「デコさんはわざとボクを避けているんでしょう」とエバレット。そんな事はないけれどね。確かに、夫立ち会い出産は夫の成長のためには必要だけれど、妊婦にとってはどうだろう。

私の場合は、たまたま4人目5人目の出産が一人だったために誰にもたよったり、すがったりせず、誰にも気をつかわず、静かに本当に静かに、自分の内なる変化に、新しい命に、ゆったりと、そして凛として向き合う事ができ、本当にありがたかったと思っている。

そして、こんなすばらしい楽しい出産を5回も経験できたのも私が曲がりなりにも続けてきた玄米菜食のおかげだ。と言いきっても過言ではない。

もちろん、私の出産はたいへんむちゃだ。たまたま無事だっただけかもしれない。まじめな助産婦さんが聞いたら怒り出すかもしれない。だから絶対まねはしないでくださいね。(誰もまねしたくないって)けれど、なるべく自然にかなったお食事をしていれば、思えば叶い、やれば実現できるんだなぁって所は参考にしていただけると、うれしいです。

私が他人と少し『違う』というだけで、ショックを受けた事が3度ある。

1度目は小学校6年生の時。全校で行なった血液検査の結果を配る時に「おっ、西村(私の旧姓ね)はめづらしいな。RH(ー)だ。全校で一人だぞ」と担任の先生が言った時だ。

その頃はまだ控えめな少女だった私は何の事かもわからず、めづらしい=変わってる。つまり『変』なんだと思い込み、火を吹いているんじゃないかと思う程顔が火照り恥ずかしかったのを覚えている。

2度目は忘れもしない高校2年生の生物の時間。遺伝の勉強をしていた時。「RH(ー)の女性がRH(プラス)の男性と結婚した場合、その子は血液型不適合を起こし、致死に至ります」と生物の先生が言いながら、『RH(ー)女性+RH(+)男性=致死』と大きく黒板に書いた。

「えっ!?私は子供が産めないって事なの・・・?」

目の前が真っ白になった。先生の声もクラスのざわめきも急に聞こえなくなり深緑色の黒板に白いチョークで書かれたその文字だけが妙に浮き上がり悪魔の様にヘラヘラと笑いながら、私に向かって迫って来る様だった。

4人姉妹の長女として育った私はいつか自分も家庭を持ち、子供をたくさん産んでワイワイ楽しく暮らしたいと夢を描いていた時期だっただけにショックは大きかった。

しかし、その後自分なりに調べ、先生の知識は古く事実とは違っているという事が判明。とりあえず一人目は産む事ができ、例え血液型不適合を起こして黄疸が出ても、赤ちゃんの血液を全とっかえすれば大丈夫という事だった。そして、出産後12時間以内に注射をすれば、次の子も安全に産める確率が高くなるという。

ちょうどその頃、アルバイト先でマクロビオティックの食事法を実践している方に出会い玄米菜食のすばらしさを教わるチャンスに恵まれた。

彼の「食を正せば思いがかなう」言葉に高校生の私は(えーっ?!それって宗教っぽくって眉つばぁ。ちょっとついていけないかもぉ)と思っていたが、しだいに(もしかしたら私の身体に必要かもしれない、いつかちゃんとやってみたいなぁ)と思い始めていた。しかし私はその後もお酒やタバコ拒食や過食等、長い回り道をさんざんしていった。

けれど、24才で前夫にプロポーズされた時「家で肉や魚を料理しないけど、それでもいい?」と自分でも思いがけずマクロ宣言をしていたのだった。

その後『ぐるっぺ』という自然食品店で働きながら、マクロの料理教室に通い、結婚して2年後に待望の妊娠「普通に、自然に産みたい」という私の意志はさらに強くなっていた。

そして、今は亡き有名な助産婦A先生の助産院を訊ね事情を話してそこでの出産をお願いしたところ「あなたみたいな我がままな人がいるから、出産途中で救急車騒ぎになって病院送りって事になるのよ。初めから大学病院に行きなさい!助産院で産もうなんて母親失格だね!」と、とりつくしまもなく断られた。

産院からの帰り道、くやしくて思いきり泣いた。「血液型が少し違うだけで、私には健全なやりたい出産を選択する余地が無いのか・・・!赤ちゃんのためい良いお産を目指したいと真剣に思っているのに母親失格なのか・・・!」コンクリートに打ち付けられた様に頭がガンガン鳴ってた。これが3度め。

今思い返すと、この先生の気持ちも、まぁわからないでもない。きっと彼女は、気持ちだけが先ばしり、身体がついていかない妊婦を預かり何度もしんどい思いをした事があるに違いない。

ただ、デリケートな妊婦に対してもう少し言い方ってものがあるでしょう。とは思う。

でも、もしかしたら私はこの先生の言葉がバネになってその後5回の自然出産に取り組めたのかもしれない。そう考えると、つらい事やくやしい思いも、なんて無駄の無いありがたい経験なのだろう!とまぁ、今だから思えるわけです。

さて、その後お腹の子はどうしたかと言うと、いろいろ手をつくして探し安全も考慮して、松村さんという助産婦さんが町の病院の分娩室を借りてとりあげて下さる事になりました。

初めての出産は、いつまで、どこまで痛みが続くのか予測できず、かなりつらく感じました。自分の母親を含め、世界中のそして歴史上のすべてのお母さんは全員すごいえらい!すばらしい!と陣痛を乗り越えながら感動していました。高校の授業で遺伝の話しよりもっと、妊娠のすばらしさや出産の具体的ま事、母親の偉大さをどうして教えないんだろう。とも思っていました。

1984年4月14日早朝、前夫と母に見守られてかわいい女の子を出産。出血も少なく心配された黄疸も軽くすみ、みんなで喜び合いました。

この頃の食日誌を見ると、今とは違いかなりきちんとマクロビオティックの食事に取り組んでいます。『赤ちゃんの血液交換をする事だけは避けたい。そのためにはよほどの努力が必要だ。お腹からエネルギーが湧き出る様な食べ方をしよう!』と書いています。

RH(ー)なのにもかかわらず、医療の世話にならずに次々と元気な子供を産み一人出産までして何事もなかったのは、たまたま運が良かっただけかもしれないし、無謀だったのも認めるけれど『食を正したから願いがかなったに違い無い』と今では真剣に思っています。

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